髪をポニーテールに
岡野は玲子に気がつくと、
「あっ、さっき話した船でお世話になった村井さんだ」
「ありがとうございました」
さわやかな、満ちたりた笑みだった。昨夜《ゆうべ》あんなに狂わせておいて、うな笑いをするなんて。玲子はイライラした。
と、髪をポニーテールにした娘が、
「ルミはこのお姉さん、キライ」
「まっ、ルミちゃんなんてこと言うの」
「だってママよりきれいなんですもの」
「まあ、当たり前じゃないの」
スカートの裾《すそ》にまとわりついたルミ子をそっとあやしながら、妻の美恵子《みえこ》は玲子にほほえみかけた。と、ルミ子が、
「あっ、おじちゃん」
パタパタと走っていった。黒い帽子に黒い制服を着たボーイがドアを開けたまっ赤なベンツ450SLCから、白い麻の服にメッシュの白い靴をはいた男が降りてきた。
「やあ、このおませさん、元気だったかい」
ヒョロッとした背をかがめ、人なつこそうな笑顔でルミ子を抱きとめた。
チャン部長は声をひそめ、
「香港の暗黒街を牛耳っているチェの息子のアキョンです」
根は悪い人間ではないのだろう、ルミ子を抱きあげ、頬ずりするとうれしそうに笑った。
と、ロビーの柱のかげに消えた男を見て、岡野の顔がひきつるのを玲子は見た。
「…………?」
岡野ほどの男をそれほど恐怖させる人間とはだれなのか。
チャン部長からエレベーターの前でキーを渡された玲子は、
「私は背中しか見えなかったんですが、さっき柱のかげに隠れた男、御存じですか」
「いえ」
「そうですか」
チャン部長はうんざりした。この女は香港に着いてから、男のことしか聞いてこない。
「じゃ、我々はロビーでお待ちしております」
ホテルの部屋は濃紺とベージュで統一されていた。磨きあげられたアール・ヌーボー風の調度品が美しい。大きな花瓶に活《い》けられた南国の花が玲子を歓迎していた。
玲子は部屋に入った。岡野の顔がちらついた。昨夜のことが思い出され、玲子は喉《のど》が渇いてきた。じっとソファに座っていると、下半身がうずいて、腰が自然にくねるようになる。玲子はいたたまれず、化粧室に入り化粧を直した。色白の肌がすっかり上気して桜色になっていた。
と、トントンとドアをノックする音が聞こえた。